「コツコツ努力すれば誰でもピアノが上手くなる」を疑う

捻くれ者で申し訳ないのだが、コツコツ練習を積み重ねれば必ずピアノが上達するという考え方には賛同できない。

 

才能がある人なら、適切に指導を受けて努力を続けることで、ますます演奏が磨かれていく。それは確かだ。せっかく授かった才能なのだから、ぜひとも努力を続けていただきたい。

 

だが、才能のない人間は、あるレベルに到達すると、もうそれより上に行くことは不可能だ。残酷かもしれないがそれが現実だ。少なくともわたしはそう信じている。

 

でも、多くの人々は練習する限り永遠に演奏は上達し続けると思っている。

 

趣味でピアノを弾いていると言うと、まるでコツコツ努力することが好きな人のように見られるのが不愉快だ。

 

がんばっている自分が好き!?

努力は裏切らない!?

達成感!?

 

わたしはそのようなキラキラ系ステキ人たちとは正反対な人間なのに。

 

確かにピアノを弾く社会人の中には隙間時間を見つけて必死に練習し、難曲をバリバリ弾きこなす人もいる。

 

ピアノ教室でも一般的には「コツコツ練習して少しずつ上達」を前提にレッスンを進める。

 

先生も生徒も達成感だけが最終目的なのだろうか。

ピアノは達成感を実現するための道具なのだろうか。

がんばっている自分を演出するために、音楽は利用されているのか。

 

ピアノという楽器の可能性はもっと多様であるはず。上手くなるために弾いている・・・ではない人だってピアノを弾いている。

 

コツコツ練習して上達させようなんて、わたしのような才能のない人間にとっては苦痛でしかない。これ以上の努力は無駄だと認めることから、新たな音楽の楽しみ方がはじまる。

 

それに、コツコツ練習して上達を目指すなんて、作曲家が遺したすばらしい芸術作品を、まるで小学校の逆上がりや九九の暗記などと同等に捉えているような感じがして嫌な気分になる。

 

ピアノを弾くということは、わたしにとって何なのか。

 

1.音楽を知る手段の一つ 

 

ピアノを弾けることの最大の幸せな点は、仲介者(ピアニスト)を通さずに、直接作曲家と繋がることができるということ。ピアノを弾くという行為は、わたしにとっては神聖な儀式のようなもの。

 

わたしはこのように捉えている。

 

音楽を聴く → 音楽を浴びる。シャワーのように。

弾く → 音楽を体内に取り込む。食べるように。

 

わたしにとっては、徐々に上手くなっていく喜びなどより、楽譜を手に取り初めてメロディーや和音を弾いて感じる瞬間の方が幸せなのだ。最初の瞬間の直後、幸せ気分は急速に弱まっていく。なぜなら、少しも上手くならないから。初めて出会う瞬間だけが愛しい。

 

弾き続けて上手くなったことなどない。スムーズに弾けるようになったとすれば、それは上手くなったのではなく、何度も繰り返したために「慣れた」だけ。「慣れた」ことを上達だと勘違いして喜んでも虚しい。

 

つまり、わたしにとってピアノを弾くという行為は、最初の瞬間以外はすべて苦痛だ。自分の無能さは悔しいが、こればかりはどうにもならない。でもピアノを弾くことを止めようとも思わなかった。

 

悩んだこともある。ストレスしか感じないのだから、そろそろピアノから離れたほうが良いのかもしれない。上手くなる可能性はゼロ。

 

そんなとき、この本に救われた。驚いたことに、登場する3人の哲学者たちのピアノの弾き方は、わたしのピアノとの付き合いと比較的近いように感じる。

 

ピアノを弾く哲学者(表紙をクリック)

 

たとえば、ジャン=ポール・サルトル(1905-1980)はショパンを弾いていた。外では激しい主張を論じていたのに、プライベートでは静かにショパンを弾いていた。華麗にカッコよくではなく、たどたどしく、演奏の質を気にすることなく、技巧的なものも気にせず、手探りで楽譜を読みながら、音を鳴らしていく。彼の外でのイメージとの差に衝撃を受けたと、本の著者は言っている。

 

フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)もピアノを弾いていた。ニーチェもショパンを弾いていた。彼が一時期ヴァーグナーに心酔していたことはよく知られているが、生涯通じてショパンを弾いていたということはあまり知られていないという。ニーチェはプロ並にピアノを弾きこなし、作曲もこなしていたという点でサルトルとは大きく違うが、作曲者との繋がりを感じていた部分はサルトルとショパンとの関係ともよく似ている。その「繋がり」は、友だち的な繋がりというより、精神的で身体的な繋がりに近い。ピアノを弾くということは、ニーチェの人生において必要不可欠なものだった。発狂してもなお、彼はピアノを弾いていた。

 

本に登場する3人目の哲学者はロラン・バルト(1915-1980)で、彼が弾いていたのはシューマンだった。バルトは完璧な演奏など目指していなかった。もっと感覚的なものを大事にしていた。ピアノや作曲家、曲に身を委ね、お互いを知り、関係を結ぶ。彼と音楽との関係は、恋愛関係のようなものだった。

 

こうしてみると、ピアノを弾くということは、個人のプライベートな内面に迫る行為であり、あまり突っ込んで自分とピアノとの関係について語るのは少し恥ずかしいことにも思える。

 

わたしはピアノを弾くということを「作曲家と直接繋がる行為」などと言ったが、この本の後半ではもっと際どい表現が出てくる。ある程度わたし自身も自覚している部分がある。考えてみれば、演奏というのは色っぽく見える行為でもある。

 

なるほど、これでいいのだと思った。これがわたしとピアノの関係。

 

ただ、それでも世間とのズレは修正できない。わたしは、ピアノが上手くなりたいからがんばっている人ではないと、声を大にして言いたい。

 

 

2.ライフワークとして取り組むべき作曲家と出会いたい

 

ピアノ弾きとして、運命の出会いを果たしたい。出会うために、まだ旅を続けている。

 

楽譜を見ながら音を鳴らした瞬間に「この作曲家だ!」と直感的にわかるものなのだろうか。あるていど付き合ってみないと判断できないものなのか。もう出会っているのに、自分が大事な何かにまだ気付くことができていないのか。

 

サルトルにとってのショパンのような、人生のパートナーのような作曲家を早く見つけたい。

 

好きなピアニストたちの選曲を参考に楽譜を集めるだけでは、本当に出会うべき作曲家とは出会えないのかもしれない。どうすればいいのだろうか。

 

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一般的なピアノ教室とクラシック音楽ファンの間には大きな溝があると思う。

 

ほとんどの教室では「エリーゼのために」を弾けるようになりたい人は歓迎されるが、ベートーヴェンの最後のピアノソナタを自分なりに分析して理解を深めるための手段として少しピアノを触ってみたい、一部分でいいから弾いてみたい、なんて言う人は歓迎されない。

 

一曲ずつ弾けるようになることだけが大事なこととして扱われてしまう。弾けるようになること以外の部分で生徒を導くことができる知識と経験が豊富な先生というのはなかなかいないのだろう。うまく導いてくれる先生がいれば、クラシック音楽ファンは喜んでレッスンを受けるかもしれないのに。

 

でも、ほら、そういう難しい抽象的なことより、コツコツ努力して上手くなっていくということを目指すほうが、教える側も達成感があるのだから、みんなそうするんだよ。こうしてピアノはがんばっている自分を演出するための道具となっていく。(涙)

 

でもねえ、上手くなることを目指さないピアノだったら、習ってみたいと思う人もいるのでは?

 

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