台湾のクラシック音楽ライター 焦元溥   ラフマニノフに関する博士論文(英語)

チャオさんについて

焦 元溥  YuanPu Chiao

1978年台北生まれ。クラシック音楽、特にピアノに只ならぬ情熱を注ぐ人物。国際関係学を学んでいたアメリカ留学時代から、個人的に世界の大物ピアニストにインタビューを申し込み、インタビューを実現させてきた。大英図書館の研究員を経て、イギリスのキングス・カレッジで音楽学博士課程終了。音楽ライター、研究家、ジャーナリスト、企画者。

チャオさんによるピアニストのインタビュー集は台湾で出版され、日本ではその日本語訳3冊が読める。

第1巻 ポゴレリチ、ヴィルサラーゼ、レオンスカヤ・・・
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第2巻 ツィメルマン、キーシン、ジャック・ルヴィエ・・・
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第3巻 ダン・タイ・ソン、エマール、ティボーデ・・・
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本は図書館で借りて読むことが多いのだが、このシリーズだけは購入した。続編を読みたいので、応援のつもりでお金を払う。ピアニストのインタビューはネット上にいくらでもあるが、内容の濃さはチャオさんの本がピカイチ。

 

なぜ彼のインタビューは凄いのか

  • 演奏家、作曲家を心からリスペクト
  • 圧倒的な知識と理解
  • 自らの意見を持っている
  • 個人として活動

 

彼はインタビュー相手を最大限尊重している。ピアニスト本人がどういう人間であるかを理解し、ピアニストが語りたかったことを察知して、巧みに聞き出す。インタビュアーとしての能力が高すぎる。ピアニストは嬉しそうに語るだけでなく、ときにチャオさんからの質問に感動さえしている。

 

彼は自分はプロではないと謙遜しつつも、自らピアノを演奏する人なので、演奏者としての知識や目線を持っている。所有するレコードの総数は知らないが、おそらく数千どころではなく数万なのでは?もちろん大量に所有するだけではなく、よく分析している。

 

インタビュアーは陰の存在であるべきなのか?そうではないのかもしれない。チャオさんは音楽を愛する1人として彼自身の考えを持っている。自分の軸がある。それは必ずしもインタビュー相手の意見と一致するとは限らない。お互いを尊重しつつ意見交換ができる。だから、彼は世界のピアニストたちから友人や同僚として好かれている。

 

そういったことが可能なのは、チャオさんが何かの宣伝ではなく個人としてインタビューを実施しているからと言える。我々がよく目にするインタビューはコンサートの宣伝のためのものばかりなので、その目的は基本的にチケット販売。チャオさんのインタビューは、純粋に音楽を探求するためのインタビューだから、ピアニストは喜んで語るし、読んでいる我々も新鮮な気分で読み、知らなかったことを知る喜びを感じられる。

 

1巻の冒頭に日本の読者に向けたメッセージがある。チャオさんは、子どものときは生演奏がたくさん聴ける欧米の大都市に住んでいれば良かったのにと思ったけど、世界各地をまわった今、台北に生まれ育ったたことは幸運だったと気付いたと言う。台北にいたからこそ、偏りなく、幅広く欧米やアジア各地域の演奏家を知ることができた。なるほど。様々な背景を持つピアニストたちから友として認められているのは、チャオさんが偏見のない環境で音楽と向き合ってきたからというのも理由のひとつなのだろう。

彼だからこそ、国、地域、民族、歴史などクラシック音楽のセンシティブな部分に関する質問ができるし、彼だからこそ、ピアニストもそういった部分のうち、自分が語りたい部分を語ろうとしてくれる。しがらみの当事者ではない彼だからこそ。

 

それに、個人的に思うのだが、ヨーロッパから遠いところで生まれ育ったからこそ、知りたいという好奇心がとてつもなく強くなったと言えるのでは? わたし自身、日本に生まれたからこんなにヨーロッパとクラシック音楽に夢中になって調べまくるのだと思う。もし憧れのヨーロッパに生まれ育っていたら、ヨーロッパ文化も音楽も当たり前で身近すぎて、「がむしゃらに」必死になって探ろうとまではしなかったのだろう。(それでもわたしはヨーロッパに生まれ育っていたら・・・なんて未だに思うのだが。)だから、わたしの音楽熱はチャオさんの熱い音楽熱にはまだまだ敵わないが、彼の立場や想いには共感できる部分がある。

 

それにしても、チャオさんやわたしをこれだけ夢中にさせるクラシック音楽はやはり凄いわね!(クラシック音楽賛称)

 

本の紹介記事にしようと思ったのだが、わたしはチャオさんという人物が以前からずっと気になっていて、今回改めて少し調べてみたら、おもしろいものを発見したので、そちらを紹介したい。

 

チャオ氏がイギリスのキングス・カレッジで書いた博士論文が同校のウェブサイトからダウンロードできる。

https://kclpure.kcl.ac.uk/portal/en/persons/yuanpu-chiao(a05be2a0-cb5c-405a-b69a-2187318fe24d)/theses.html

YuanPu Chiao 2012年6月

King’s College London

The Changing Style of Playing Rachmaninoff’s Piano Music

(ラフマニノフのピアノ曲 演奏スタイルの変遷)

 

PDFファイルを開いて、一度は速攻閉じたのだが・・・(長過ぎてムリと思い)、けっきょくザックリ全部読んでしまった。数日かけて。他にやりたいこと色々あったのに。

 

彼の研究なら読んでみたいと思った。真面目で真摯に音楽と向き合う態度はインタビュー本からも伝わる。

 

論文の内容は大まかに並べるとこのようになっている。

  • 各地域のピアノ奏法とは
  • 黎明期のロシア奏法とは
  • ピアニストとしてのラフマニノフ、自作や他作の演奏の録音、ロシア的な演奏か否か
  • その時代、他のピアニストはラフマニノフ作品をどう弾いていたか
  • その後のピアニストはラフマニノフの録音にどう影響を受けたか

 

チャオ氏はインタビュー本からも分かるとおり、ヨーロッパ各地域の音楽学校で教えられてきた奏法の違いというのに関心がある。スクール、ピアニズム、奏法、などという表現をしている。ところが、ピアニストの中にはそういった地域の差はないと主張する人もいる。地域の差というよりは師から弟子へ、個人と個人の間で伝えられるものだとか、昔はともかく今はグローバル化で世界どこでも同じように指導されていると考える人もいる。わたしはチャオ氏と同様に、地域により演奏の特徴は違うと考えている。論文では、ラフマニノフ自身のピアノ演奏について語る前に、彼はまず各地域の奏法というものの存在を、例を挙げながら確認している。

 

言うまでもないが、解釈や奏法の研究というのはどちらが正しいとか、より優れているかということを議論するものではない。演奏者がその解釈や奏法を採用するに至った背景や要因を調べるのが研究である。チャオ氏はロシアピアニズムに特に関心が高いのだが、他のピアニズムを否定しているわけではない。それぞれを尊重している立場で書いた文章だから、読み手は安心して読める。

 

論文での論点はテンポの選択、アルペッジオの頻度、カデンツァの選択、強弱の付け方、一部省略、内声部の扱いなど。録音された音を色つきで視覚化するヴィジュアライザーも使用。譜例や調査結果の表も添付されている。取り上げられている曲は、ラフマニノフの前奏曲23-5(あの懐メロみたいな曲)、ピアノ協奏曲第2番、第3番など。ショパンなど他の作曲家の曲も含む。

 

10年前、クラシック音楽初心者だったとき、わたしもロシアの作曲家でピアニスト、この論文の主役であるセルゲイ・ラフマニノフ (1873-1943) に嵌ったのだが、そのときがわたしにとってラフマニノフ・ブームのピークだった。マイブームは短かった。それ以後も美しい魅力的な音楽だとは思っていたが、演奏者がテクニックを見せびらかすための曲でもあるという印象も持っていた。論文の説明を読んで、ラフマニノフが非常に特殊な位置にいる作曲家でピアニストであることを知った。

 

  • 作曲家本人による演奏の録音が沢山ある(自作はもちろん、他の作曲家の曲も)
  • 現在に至るまで、多くのピアニストが頻繁にラフマニノフのピアノ曲を演奏してきた(比較音源が豊富)
  • テンポの選択、一部省略などラフマニノフ自身による演奏録音が譜面通りではない(楽譜と作曲家の演奏録音、どちらを重視するか等、ピアニスト本人が研究して考えて選択しなければいけない部分が多い)

 

ピアノ演奏の研究分析対象として、これほど相応しい作曲家が他にいるだろうか。なるほど。そういう視点で見ると、これからわたしのラフマニノフの演奏の聴き方が変わるかもしれない。

 

チャオ氏のインタビュー本の愛読者で続編を待っている人、ラフマニノフが好きな人、ピアノ奏法に興味がある人、ラフマノニフ作品の録音の聴き比べが好きな人にとっては超貴重な研究だと思う。英語に抵抗がなければぜひ読んでいただきたい。

 

英語が苦手なら、誰かがチャオ氏本人と交渉して翻訳許可を取って翻訳してくれるのを待ちましょう。スズキがやればって?無理無理。わたしより適任の誰かに取り組んでいただきたい。日本語訳する価値のある論文だと思う。

 

これだけデータや資料が入手可能なのに、ラフマニノフのピアノ演奏を取り上げた研究や書籍は少ない。ざっとアマゾンを検索してみたが、楽譜やCDの数に対して、ラフマニノフ関連の書籍は極僅かで、しかも入手困難で中古本が高額で売られている。この論文は貴重な資料として使えると思う。

 

アカデミックな論文の良さも発見した。

 

一部の音楽ライターのようにピアニストや音楽をポエム風な表現で絶賛するのではなく、実用的で説得力のある内容。論文であるからこそ、矛盾点があれば指導教官から指摘されて改善するのだろう。よくまとまっているから長くても読み続けられる。また、英語ネイティブではないからこそ、英文がシンプルかつ丁寧で明確。チャオ氏が研究のために読み込んだ大量の資料はおそらく英語文献やロシア語によるインタビューの英訳などで、わたしにとっては分かりにくい文章なのだろう。その内容の解釈を、チャオ氏による整理された英文で読めるのは有り難い。

 

ああ、スズキも何か研究したい(笑)

研究したいテーマもないのに、研究という作業に憧れる。

 

結局のところ、わたしはアタマが悪いのでチャオ氏のような徹底した分析研究はできないのだが、音楽に関するアカデミックな論文を読むことは自分にとって楽しいことだということを知った。他にも読めそうなおもしろい論文があれば読んでみたい。

 

わたしは音楽研究の世界を知らないのだが、こういう分野の研究をする人、つまり、録音された音源を研究して発表する学者や音楽家は少ないのだろう。(音楽のプロではない一般の音楽愛好家は熱心にやっているのだけど・・・)

 

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論文の本筋からは少々脱線するのだが、この論文がきっかけで興味深い音源の存在を知った。

 

未発売のラフマニノフの音源がある。ラフマニノフはライブ録音を許さず、徹底してスタジオで録音して、納得できない録音は破棄させた。だから、新たな音源が発見されることは稀なのだが、ペンシルベニア大学のオーマンディー・アーカイブに未発売の音源が保管されている。それはパーティーか何かプライベートな場所で、おそらく本人は録音されていることなど知らずに弾いていたと思われる。弾いているのはラフマニノフ本人が作曲した交響的舞曲のピアノ版。

 

その音源が、どうやらもうすぐ発売されるらしいという情報をYouTubeで知った。意外なほど自由で楽しそうな演奏。しかもラフマニノフさん、歌っている・・・

 

音源を発売するレーベルのサイト

Rachmaninoff Plays Symphonic Danceswww.marstonrecords.com

 

さらには、これまた本筋とは関係ないのだけど、たまたま論文で名前が挙がっていたピアニストについても調べてみた。気になる歌手の名前もメモった。ある曲の解釈のおもしろい部分を知って自分でもYouTubeで調べて聴いてみた。

つまり、論文を読みながらいろいろ楽しんでしまったのだ。

皆さんも良かったらぜひ論文をダウンロードして読んでみてください。

 

Dear Mr YuanPu Chiao

                  I enjoyed reading all the three books translated and published in Japan so far. Your thesis is also remarkable! I would definitely recommend it to my friends. Many thanks to you. I admire your passion and integrity. I wish you all the best on your future endeavours in the world of classical music!

 

Suzuki

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