絶望を絶望と感じることを、わたしはやめない・・・ニューノーマルに適応できない残念なクラオタ女スズキの絶望

「前向きになろうよ!」と、むかし、失業したときに誰かに言われたが、自分の心に嘘をついて元気なふりをすることのどこが良いのか、わたしには未だに分からない。前向きであることを積極的にプッシュする世の中が嫌いだ。だから、わたしは今の状況に絶望を感じることをやめない。

わたしが、クラシック音楽のどこが好きだったのか。突き詰めて考えると、1つの点が浮かび上がる。それはつまり、結局のところ、自分の果てしない外国愛と強く結びついたものだった。異国・異文化・多文化へのどうしようもない憧れ!その最大の対象であるヨーロッパ!気軽に触れることが不可能となればなるほど、ますます切実に恋しくなる。募る想いに押しつぶされそうだ。

気が付けば来日演奏家ばかり追いかけるようになっていた。ついにはヨーロッパまで押しかけて鑑賞して、音楽鑑賞の旅がライフワークになった。旅ができないときは、ひたすら演奏家が来日するのを待っていた。

そんな人生が大きく変わってしまった。もう自分はヨーロッパに行けず、演奏家も日本に来ることができないかもしれない。

いつか、元に戻るという希望は持たない方が良い。これからわたしたちは、ニューノーマル(新常態)という、あたらしい「ノーマル」な社会に移行する。以前と同じ状態に戻れる可能性は低い。つまり、わたしはもう気軽にヨーロッパに音楽鑑賞の旅に出かけられず、日本でいくら待ち続けても異文化や多文化を感じさせてくれる演奏家の来日は激減するだろう。そのようなものは、ネットだけで楽しむものとなる。ああ、なんという悲劇だろう。不幸だ。泣かずにいられるか!

わたしにとって、ヨーロッパまで飛んで行って音楽鑑賞をすることと、日本で来日演奏家の演奏を聴くことは、生きる上で何よりも大事なことだった。毎日の生活や身近な人々の存在などより大事だった。旅やコンサートを人生のオマケぐらいにしか思っていない普通の人々に、わたしの絶望など理解できるはずない。わたしは、あなたたちとは、まったく違う種類の人間なのだ。

来日演奏家たちは、わたしの興味関心を大きく広げてくれた。作品や作曲家についてもっと知りたいと思わせてくれた。もっと情報が欲しいから、英語以外の言語を学ぼうと思わせてくれた。ヨーロッパ旅を決断させてくれた。旅のためにどれほどたくさん本を読んだだろう。どれだけ多くのクラシック音楽作品を「予習」しただろう。旅と音楽を通して、ヨーロッパの歴史、文学、美術、言語などについて少しずつ知識が増えていくのがうれしかった。毎回、アホみたいに、うきうきワクワク気分で旅を企画して、実行して、うれしくて仕方なくて、うれしすぎて、旅が終わって帰国した後のことを思って暗い気分になったり、個人的な事情で旅が不可能になる日が怖くて落ち込んでしまったり。それがわたしの人生だった。

クラシック音楽に依存して生きることは、特定の人間に依存して生きることより、はるかにずっと安泰だと思っていた。自信満々だった。音楽は、一方的に好きなだけで良い。いつまでも追いかけていける相手。愛の対象が音楽であれば、嫌われたり、裏切られたり、死という別れなどもない。相手の重荷になることもない。自分の都合で愛の度合いを変えても良い。ラクな付き合いだ。だから、平和な人生になると思っていたのに。あれれ? あれれれ? なんだろう?!この状況は?!

わたしは、日本社会のどこにも居場所がない。帰属意識ゼロ。それでも、コンサートホールの客席だけは何となく自分の居場所だと思っていた。誰かとコミュニケーションするわけではなく、ただそこに座っているだけだったけど。そんな唯一の居場所が消えてしまうかもしれない。コンサートに行かず、旅にも出なくなり、今後も継続的に在宅勤務となって、きっと自宅のパソコンの前だけがニューノーマル時代におけるわたしの居場所となる。引きこもり人間だ。1人で頻繁に遠くまで出かけるアクティブなリア充だったスズキが、ネット廃人の道に突き進んでいる。そのまま死んでしまいそうだ。

わたしにとって音楽鑑賞といえば絶対的に生演奏、ライブなのだ。オンラインで楽しむ音楽鑑賞は、ライブで楽しむ「本番」の事前予習でしかない。

知っているかい?シェイクスピアの戯曲(芝居)「マクベス」に出てくる脇役の門番は、前の晩に酒を飲み過ぎて、なかなか扉を開けてくれない。やっと出てきたと思ったら、いきなり「酒が煽り立てるもの」について語るのだ。それは3つあると彼は言う。鼻が赤くなる、眠くなる、そして何度もトイレに行きたくなる。だそうだ。まあそりゃそうだ。さらに彼は話を続ける。「お色気の方は、やる気にさせておきながら、しなびてしまう」だそうだ。ん?なんだそれ?? おい!完全に下ネタではないか。(そうなのだ。シェイクスピアには、そういうのがよく出てくる。)

ここのところずっと、わたしも「その気」にさせられておきながら「本番なし」という状態が続いているのだ。オンライン鑑賞のことだ。オペラなどが素晴らしくてね。スクリーン越しではなく、目の前でライブで観たくてたまらない。ああ、それなのに、そんな自分の気持ちを無視して、オンラインだけで満足しなければならないとは。だったら観なければいいのに、やはり観てしまうのだ。そして1人で、部屋で、恋焦がれて。ぐすん。歌劇場に行きたい。早く「本番」の鑑賞をさせてくれ。

オンラインでオペラとクラシック音楽を鑑賞しながら、スズキは堂々と浮気している。つまり、1月のロンドン旅で出会ったシェイクスピアに再び夢中なのだ。ロンドンのグローブ座やカナダのストラットフォード・フェスティバルがYouTubeで特別公開している過去公演を観るために、1週間かけて日本語訳と英語の原書を超特急で勉強して、週末を「仮想本番」と呼んで基本的に1回のみ鑑賞する。すでに複数の作品を鑑賞した。

クラシック音楽に夢中になったのも遅かったが、シェイクスピアに夢中になったのは、もっと遅かった。残念な人生だ。どちらも、もっと早く出会っていれば、人生の選択肢も多かっただろうに。新たな趣味に加わったシェイクスピアのお芝居だって、わたしを慰めてくれるわけではない。結局、これも「本番」がお預けになっているからだ。状況はクラシック音楽界と似ている。

わたしにとってはシェイクスピア劇も異国・異文化・多文化を感じさせてくれるものだ。劇場が再開したら、日本の役者による日本語のシェイクスピアも少しぐらい観ようかなと思っているけど、わたしの本当の興味の対象はオリジナル言語による上演なのだ。

「アイ マダム」とか、「ネイ」「マイ ロード」とか、「グッドモロウ」「ビシーチジー」「プリジー」「フェア ジー ウェル」「ソフト」「ピース」「ザウ ライアスト!」「アラス!」「ハウ ナウ!」「ロー!」「ファイ!」・・・ふふん。どうだい!?すごいだろ!おもしろいでしょ?!ん?あれれ? 誰にも通じない。。。 あの時代の英語を覚えてどこかで使ってみたい。ほとんど通じないだろうけど。気に入ったセリフを丸暗記してカッコ良くスピーチしたい。くぅ、またアホな夢を持ってしまった。変態かよ、わたしは。とほほ。

オペラは世界どこでも基本的に原語上演だが、お芝居は現地語での上演になる。つまり、日本で英語上演のシェイクスピア劇を観る機会は極めて少ない。今月、イギリスからロイヤル・シェイクスピア・カンパニーが来日する予定だった。貴重な機会だったのに、もちろん来日は中止。「本番」の鑑賞を求めて悶える日々が続きそうだ。

シェイクスピアと出会ったのも、旅だった。誰かに「シェイクスピアおもしろいよ!オススメ!」などと言われても、きっと本は読まず、劇場にも行かなかっただろう。旅というきっかけがあったからこそ、挑戦してみようと思ったのだ。これまでの人生で、旅のお陰でどれほど好奇心が刺激されたか。日常生活や身近な人々の存在より旅の方が、わたしにとって大事であるという例の一つだろう。

結局、人は他人にきっかけを与えることはできないのだ。そういえば、わたしは、最後のブログ記事かどこかでちょっと嘘をついたような気がする。ウケ狙いというわけではないが、人の好みに合わせて書いて、興味を引き出そうと意図した記事がいくつもあった。でも、わたしはもうよく分かった。人は他人にきっかけを与えることはできないのだ。どうせわたしは人に影響を与えることはできない。わたし自身だって、自力で、自分の世界を切り開いてきたのだから。

そんなわけで、過去10年ぐらい、クラシック音楽、それからヨーロッパ旅が、わたしの人生でたった2つの大事なものだったのだが、今後はコンサート鑑賞もヨーロッパ旅も難しくなりそうだ。この記事を書いている時点では、日本からヨーロッパへの渡航は難しい状況。ヨーロッパへの飛行機は大幅に減便。航空会社の案内を読むと、欧州への入国そのものは禁止ではないようだ。でも、現地住人だって近隣諸国への移動がようやく自由になったばかり。ホテル等の営業はどうなのだろう。調べていないが、何もかも通常通りということはないだろう。それに、無理やりヨーロッパに行ったとしても、日本に帰国してから自主隔離しなければならない。

いつか、必ず、再び旅行が可能になる。ただし、それは、今までとは違う「ニューノーマル」の不便な旅行となるのだ。もう、今までみたいな旅はできない。それだけでもショック死レベルの衝撃だ。生きにくい日本社会で、これまでに、どれだけ多くの人が海外での休暇に救われたことだろう。日本での生活がストレスの原因となっている人にとって、日本国内の旅は「命の洗濯」と言えるほどのリフレッシュ感を与えてはくれない。どんなに海外での休暇が自分にとって大事であっても、分類上、わたしたちは観光客でしかない。まずは商業目的の渡航が先。遠方からの観光客が歓迎されるほど世界の状況が改善するには、あと数か月?数年?「おおーい!わたしは定期的にヨーロッパまで旅しないと死んじゃうかもしれないのよ~!」と叫んでも無駄なのだ。どこにも逃げ場が無いのに生きていく。残酷な世の中だ。

では、海外旅行が可能になったらスズキは早速旅行するのか?しないかもしれない。わたしのネガティブ思考は止まらない。航空会社もホテルもコロナの影響を大きく受けた業界だ。今はまだ以前と同じぐらいの金額でサービスを提供しているかもしれないが、今後は値上げせざるを得ないのではないかと想像する。

たとえば飛行機が、欧州往復など長距離便に限り、「お客様の安全」のために全席ビジネスクラスにしたら、あるいはエコノミークラスの席を1つずつ空けて販売したら、当然わたしたちの航空券は高くなるよね?だって、天井の高いコンサートホールの座席で2時間ぐらい音楽鑑賞をするときに座席数を減らさなければいけないのに、密室で12時間もホールの座席のような幅の狭い席に座って飲食する飛行機のエコノミークラスはそのままでOKというのは矛盾していないか?

ホテルだって、ただでさえ客数が激減しているのに、感染防止対策にコストがかかり、比較的リーズナブルに滞在できたホテルは倒産して、一部の巨大チェーンや高級ホテルばかり残る。あるいは、宿泊料が高くても自分の安全のために衛生管理を徹底するホテルを選ぶ客が増えて、ホテルが淘汰されて、数が減っていく。

さらに、ネガティブ思考で想像を進めると、旅先で、クラシック音楽のコンサートやオペラは間引いた座席など感染防止対策のためのコストを反映してチケット代が2倍。演奏者同士のソーシャルディスタンスを確保するため、演奏可能なプログラムは限定的。オペラは縮小したオーケストラによる演奏会形式あるいはピアノ伴奏や少人数アンサンブルの演奏で歌う名曲メドレーのみ。公演回数も以前の半分ぐらい。これまでの旅では毎晩のようにコンサートを鑑賞していたのに、これからは幸運でもせいぜい1週間の旅程で2回ぐらい。宿泊客の激減で経営厳しいホテルでは歓迎してもらえるかもしれないが、街中では余所者スズキは招かれざる客。ホールでも同じような扱いを受けるかもしれない。オンラインでコンサートを鑑賞できるのに、わざわざ遠くから来た迷惑な聴衆と見られてしまう。多様な人々が住む国際都市であっても、わたしがどれほど外国かぶれであっても、どんなに必死に現地人のフリをしても、わたしが余所者であることは言葉や雰囲気や態度でバレてしまうだろう。

このように、旅費が過去のヨーロッパ旅の2倍かかるとして、旅先での状況として前述のようなことが予想される中、それを体験するために旅をしようと、わたしは思うのだろうか。思い出作りやネタ作りのために旅する人なら、格好の機会なのだろうが、そんな人々と一緒にしないでくれ。わたしの旅の重要な目的は音楽鑑賞であり、音楽を通して芸術文化歴史全般を知ることである。その目的に合う旅ができないのなら、旅をする意味がない。

あれほど勢いよくわたしの世界を広げてくれたヨーロッパ旅に、もう行くことはないのかもしれない。とっても大事だったのに。人生でもっとも大事なことだったのに。

今から始まるニューノーマルが5年後には終わって、その後、さらに新しいニューノーマルが始まり、コロナ以前と同じような旅が可能になるとしたら、旅の喜びは5倍になるのか?!10年後なら10倍?! そんな都合の良い話などあるか。アホくさい。せいぜい2倍程度だろう。そんな喜びの倍率など1倍で十分だから、いつでも安心して気軽に旅できる時代が続いて欲しかった。

それなら、国内でも旅しようか。でも、あまり遠出する気にはなれない。国内の夏のクラシック音楽祭は軒並み中止だし、演奏家も来日しない。異文化・多文化を感じられるクラシック音楽イベントが無いのでは、旅する意味がない。全国どこに行っても日本的な人間が日本的なサービスを提供しているだけで、心の底からリフレッシュということは期待できない。どこに行っても、良くも悪くも日常の延長でしかない。日常が大好きな普通の人々には向いているかもしれないが、日常が大嫌いなわたしは、今は国内旅をする気になれない。

わたしは基本的に単独行動を好む人間で、1人で遠くに行くのが好きだった。旅とコンサートのお陰で、わたしの人生は充実していた。そんな「1人アクティブ」な人間もコロナ禍の影響を受けた。みんなで集まってお茶や飲み会をするのが好きだった人々はオンラインで代替できるが、1人で遠くに行ってぶらぶらするのが好きだった人は、オンラインで景色などを眺めるだけではまったく救われない。わたしは旅先で人脈を築いたわけでもなく、日常生活でも人付き合いの悪い人間だから、オンラインで頻繁に人々とやり取りをしたいとは思わない。でも、少しぐらい、人とのネットワークを作っておけば良かったなと、ちょっとは思う。

走馬灯のように過去の旅を思い出す。あれは、ひょっとしてすべて夢か幻だったのだろうか。あんなにワクワクうきうきキラキラ瞳を輝かせて・・・ 幸せいっぱいなアホだった。本当に旅したのかな。すべて妄想だったのだろうか。もう何がなんだかわからん。

「いいかげんにしろ!それならさっさとヨーロッパに移住せよ!」 毎回お馴染みの叱咤が飛んできそうだ。でも、今回のコロナ禍で、ますます移住の夢は遠のくと思う。わたしは究極の単独行動の人間だ。結局のところ母国である大嫌いな日本が便利なのだ。言葉の問題もなく、困ったことがあっても自力で解決できるだけの知識と経験を有する場所、合法的に居住して就労できる場所、それがわたしにとって日本なのだ。それ以外にこの国の利点などない。

いまさらヨーロッパに行っても、十分稼げず、居住・就労許可を取得できる可能性も低く、いざというときに助け合うための人的ネットワークを築くのも面倒な一人好き単独行動のオバサンは、今回のような危機を現地で乗り越えることができないだろう。自分のような何のツテもコネも才能もないオバサンの移住は認められないだろう。自分自身が自信ないと言っているのだから無理さ。ああ、でも、なぜ、大嫌いな日本に住み続けなければならないのだろう。解決策はどこにもない。不幸だ。悲しい。ヴェー!ヴェー!ヴェー!(←ドイツ語)

わたしがクラシック音楽のどんなところが好きだったか。前述の通り、わたしはクラシック音楽に外国を感じていた。異文化で多文化な世界が昔から好きだったから、そんな目でクラシック音楽を見るのは不思議でもなんでもない。

クラシック音楽の公演は、国際プロジェクトだった。例えば、日本のオーケストラが東京のホールで演奏するときに、ヨーロッパから指揮者が来日して、アジア出身でアメリカ在住のソリストと共に演奏するというのは、決して珍しいことではなく、日常的なクラシック音楽シーンの1つだった。ヨーロッパの主要劇場でオペラを上演するとき、中心人物を歌う歌手陣が数か国から集まってくるというのも、普通のことだった。日本でも、待っているだけで、世界中から演奏家やオーケストラやオペラ団体が続々来てくれた。

ごく当たり前に行われてきた国際コラボレーションが、これからは難しくなる。ヨーロッパに居住する演奏家はヨーロッパ中心、アメリカに居住する演奏家はアメリカ中心に演奏活動をして、もう日本には来ないのかもしれない。地元の演奏家が、地元の演奏仲間とともに、地元の人々のために演奏し、僻地に住む我々はそのオンライン映像だけを楽しむだけというのが、クラシック音楽公演のニューノーマルだとすると、わたしは悲しくて泣いてしまう。

いつも文句たらたらのダメ人間スズキは「いつも同じ人ばかり来日する」と文句を言っていたが、それでも、以前なら、東京で待っていれば、年がら年中、世界各国からはるばる大勢の演奏家が来日してくれていたので、日本にいながら外国を感じつつ演奏を楽しむことなど、いつでも簡単に可能だった。大物ビッグスターに限らず、知る人ぞ知るベテラン実力派、演奏活動を開始したばかりの新人など、幅広い演奏家が日本各地の大ホールや小ホールを客で埋めた。

そんな演奏家たちは、いざ日本への入国制限が解除されたら、再び日本に来てくれるだろうか。ヨーロッパから片道12時間も飛行機に乗って、心配と緊張で疲れ果て、やっと日本のファンと会えると思ったら、1つずつ空けて座った疎らな客席で、みんなマスクを着けていて表情は見えず、サイン会も楽屋や入口での交流も禁止され、悲しい気分でまた12時間のフライトで感染不安に怯えながら帰国する。そして、次の来日演奏をキャンセルして「大好きな日本のみなさん、これからはぜひオンラインでわたしの演奏を聴いてね!」と伝えるのかもしれない。ネガティブ妄想がとまらない。ああ悲しい。

一方で、演奏家たちが再び日本に来てくれたら、わたしたちは張り切って聴きに行くのだろうか。例えば、席を間引きする分、チケット代は通常の2倍の価格(←スズキの妄想)となって、ホール内ではマスク着用、会話はできるだけ控え、ドリンク販売は無しで、サイン会も無し。もしそうだとしたら、あなたはこれまでと同じように頻繁にコンサートに通うだろうか?わたしの場合は、自分が特別に贔屓する大好きな演奏家の来日であれば、どんな条件であっても、足を運ぶだろう。その他については、わからない。行かないような気がする。こうして、常連客が来なくなると、チケットが売れず、もう来日演奏家のコンサートも企画されなくなる。恐怖の下向きスパイラルだ。ああ悲劇だ。どうするのよ。

日本のオーケストラが海外の指揮者やソリストと協演するのを聴きに行くのも好きだった。相思相愛に見えるオーケストラ団員と指揮者の関係に嫉妬したこともある。築き上げた信頼関係が羨ましかった。同じように、日本を拠点に活動する演奏家が、海外から来日する演奏家と一緒に演奏するのも好きだった。そんな国際コラボレーションは、日本でも世界でも日常的に繰り広げられていたというのに。異なる背景を持つ人々が、同じクラシック音楽という道に目覚め、共に歩み、お互い影響を受け合うということは、もうリアルな世界では限定的となってしまうのだろうか。

ヨーロッパと日本の間で移動が困難な状態が続くと、ヨーロッパと日本の両方に拠点を置いて活動していた演奏家たちは、どちらかに拠点を絞るだろう。域内の移動が今後も比較的スムーズと思われるヨーロッパなら、演奏機会も多いから、ヨーロッパに永住してしまうのかもしれない。そういう人も含め、日本出身でヨーロッパ在住の演奏家たちも、今後は滅多に来日しないかもしれない。

日本在住の演奏家の演奏だけで、外国贔屓で好みが偏っているわたしは、異国を感じることができるのだろうか。日本では滅多に演奏されない曲も演奏してもらえるのだろうか。世間に忘れられた曲も発掘してくれるのか。わたしは、「もっと知りたい」というわたしの好奇心を高めていくことができるのだろうか。それとも、クラシック音楽はただのエンタメや癒しにとどまってしまうのか。不安と絶望とほんの少しの期待にまみれて息苦しい。

いつも同じ相手と演奏する人もいたが、地域を超えて様々な仲間たちとチームを組んでいた演奏家も少なくなかった。異なる相手と演奏を楽しみ、そのたびにお互い刺激を受けて、さらに成熟していく。そんな時代は終わってしまったのか。今後は、同じ都市あるいは国・地域に住む、いつも同じ、固定の相手とばかり演奏することになるのだろうか。遠くに住む演奏仲間とはチーム解散、自然消滅ということになるのか。そんなの嫌だ。あんなに素晴らしい演奏を聴かせてくれていたのに。

「クラシック音楽でもニューノーマルとしてオンラインで協演すれば良いではないか!」と言われても、それはちょっと違う。外出禁止・自粛だった期間、やむを得ずオンラインで繰り広げられたアンサンブルは確かに感動的だった。わたしだって涙しながら観た。でも、それは音楽そのものに感動したのではなく、こんな状況を強いられている演奏家たちがかわいそうで、そしてそんな中で演奏を続けている健気さに心を動かされたのだ。わたしが本当に音楽に求めている感動とは次元が違う。

たとえ、今後、鑑賞者はオンライン鑑賞がメインになるとしても、演奏者たちは一か所に集まって演奏するべきなのだ。一般の人から見れば、クラシック音楽というのは、優雅にゆったり控えめに演奏するものなのかもしれない。でもそれは間違った認識だ。2人以上で演奏するというのは、いつだってスリリングなものだ。演奏者それぞれが最大限に曲から魅力を引き出し、遠慮なく表現する。自分のパートを最大限表現しながら、相手の演奏を感じて反応するには、同じ空間にいなければならない。リモートで一緒に演奏すると、ヘッドホンの音声と画面に映る相手の姿に集中するあまり、100%の演奏表現を実現するというのはむずかしいと思う。音楽的な表現をすることより「合わせる」ことに多大な神経を注がなければならない。演奏できる曲も限られる。そんな状況で、もしも、音楽的にも素晴らしい演奏ができたとしても、お客さんがそのオンラインの遠隔協演にお金を払ってくれるだろうか。無料なら1曲ぐらい観ても(聴いても)いいかなと思う程度だ。

感染拡大が深刻だったヨーロッパでも、演奏家たちが同じ場所で演奏できるようになって、わたしは少しホッとした。無観客での演奏や、通常とは異なる、演奏者同士の距離を保った演奏であっても、演奏者たちが同じ場所に集まって演奏できるというのは状況の改善と言える。それはクラシック音楽では絶対的に必要なことなのだ。演奏者の気分的な問題ではなく、作曲家が作品に組み込んだ大胆な表現や複雑なニュアンスは、ネットで繋いだ遠隔者同士の演奏では引き出せないものなのだ。

いま、国内外各地でコンサート再開の準備が進んでいる。小規模なものなど、少しずつ公演も始まっているようだ。あまり情報を追っていないので正確なことは知らないけど。でも、これだけは知っている。海外の演奏家はまだ来日できない。入国禁止となっている。また、感染防止策の一環で公演には様々な制限が設定される。詳細は各ホール等のウェブサイトの通り。そんな状態がいつまで続くのかわからない。数か月で終わると思うか?数年続くのかもしれない。応援として1回か2回ぐらいは聴きに行くかもしれないが、なんだろう、なんだかワクワクできない。上に書いたことや下に書いたことで、もやもやして、心が晴れない。

念のため申し上げるが、わたしの趣味は「応援」ではない。クラシック音楽を通して、音楽を超えて知識を深めることで、音楽に対する感動もさらに広がり、その他の方面に対しても感性を高めていくことが好きなのだ。がんばっている人を見て、元気をもらって、美しい音楽にうっとりするという目的のためにコンサート通いをしていたのではない。自分の愛するものを提供してくれる音楽業界で働く人々(演奏者はもちろん、公演を支えるスタッフ関係者の皆さん)を尊敬しているし、応援する気持ちもあるが、「応援」そのものがライフワークなのではない。

音楽業界の人々にとって、わたしたちは「聴衆の皆さん」という、ひとまとめに括られた存在なのだろうけど、聴衆はそれぞれ好みが違うし、それぞれ異なる目的のためにコンサートホールに集まってくる。わたしもそのうちの1人だった。きっと、わたしほど極端に悲観主義に向かっているクラシック音楽ファンはいないだろう。他の皆さんは、もっと希望を持って、ニューノーマル時代のクラシック音楽の世界に期待しているのだろう。でも、わたしはそんな前向きな人間ではない。

開催可能なコンサートのプログラムはどんな内容になるのだろう。9月以降の現行プログラムは来日演奏家が来日するという前提で組まれているだろうから、来日が不可であれば変更を余儀なくされるだろう。すると、ニューノーマル時代のプログラムは限定的な内容になるのでは?ひょっとして、簡単に楽しめる客ウケの良い作品ばかり演奏されるのでは?わたしの激しいネガティブ妄想による思い込みだろうか?

人の知的欲求を無視するな!とても貴いものなのだぞ!「お客さんはそこにいるだけでOK」「お客さんは何にも分からなくてOK」「知識など抜きで素直に音楽を楽しんでね」などという傾向は大嫌いだった。これから、ますます「気軽に楽しめる音楽」に向かってにクラシック音楽界は進んでいくのだろうか。日本も、ひょっとしたらヨーロッパも、世界どこでも。心身ともに疲弊しきっている人々を勇気づけるのは、気軽で簡単な音楽ではなく、本格的な真の芸術であると、わたしは信じている。もし、ニューノーマル時代のクラシック音楽は、誰でも気軽に楽しめる演奏ばかりになってしまうとしたら、もうクラシック音楽ファンなんてやめてやる。ぐすん。大好きだったのに。

こうしてわたしは、「クラシック音楽が好きだった人」になってしまうのだろうか。それから、「ヨーロッパが好きでよく旅行していた人」になってしまうのか。それらは、すべて過去形で語るしかない、かつての趣味・ライフワークとして思い出に残るだけなのだろうか。

それとも、今後もクラシック音楽はわたしの世界を広げていってくれるのか。これからも時折ヨーロッパに出かけていけるのだろうか。オペラももうすぐ上演できるようになるのか。これまでも大幅に知識アップを促してくれた知の源泉であり感性を大きく揺さぶってくれた偉大なるオペラの世界を、これからもどんどん楽しめるのか。過去の映像をネットで鑑賞するだけでなく、新たにどんどんオペラが制作されていくのか。もし、そうでないとしたら、どんなに暗く惨めな人生がわたしを待っているのだろう。

こんな危機的な状況の中で思う。わたしは、クラシック音楽界において、いったい何者なのか。そこに座ってパチパチ手を叩くだけの素直でアホな聴衆と思われるのは嫌だったが、では、わたしは何かできるのか? いや、できない。結局のところわたしはパチパチするだけのアホな客なのだ。こんな危機的な状況においても、ただ絶望するだけで、少しでも良い方向に変換させていくアイデアなど思い浮かばず、能力も、価値もない、くだらない人間。

あ、ほら、あそこ見て!「スズキさんの黄昏」だ!
「ローゲ!もう何もかも燃やしてしまえ!」と大きな声で叫ぶスズキさん!
「シュウマツだ!」と小さな声でつぶやくスズキさん!(「週末」ではない)

おいこら!1人で「指輪ごっこ」していないで、こっちに戻っておいでスズキさん!
(オランダの歌劇場の特別公開リング全編を観たかい?!石岡瑛子さん衣装デザインの!)

留学もなくなるのだろうか。音楽に限らず、あらゆる分野で。オンライン学習でも、ツールとしての語学やスキルを学ぶのなら十分だろう。でも、現地の社会を知り、人間関係を構築し、何かしら疑問に感じたり悩んだりしながら受け入れたり、うまくバランスを取ったり、自分にとって新しい価値観を知ったり・・・ 現地でしか学べないことがある。今回コロナで留学を諦めた人々が、状況が落ち着いたら再び留学を目指せるといいなと思う。でも、日本のような古臭い社会で生きる人々は躊躇してしまうのだろう。この社会では、学校卒業=即就職という決まったレールがあり、人生を模索したり、セカンドキャリアを目指したり、学び直したりすることが簡単ではない。残念すぎる。いやな社会だ。

音楽留学に関しても、「オンライン留学」などあるのかどうか知らないが、あるとしても、それでは表面的なことしか学べないだろう。グループワークもオンラインなら、時差の関係で参加できるクラスは限られる。同級生とのやりとりもすべてオンラインだと、将来の演奏パートナーと出会う可能性も低い。前述の通り、オンラインで遠隔で協演しても、100%の演奏にはならないのだから、相手が長く付き合うべき演奏仲間であるかどうか判断するのは難しい。

ヨーロッパに音楽留学すれば、きっと日本と音の違いを感じるだろう。ピアノだって、気温や湿度の違い、ピアノが設置されている建物の構造や建材の違い、楽器個別の特性やメンテ状態などによって、日本とは違う響きを感じると思うのだが、どうだろう。わたしは素人だから、ただの思い込みかもしれないけど。

さらに、暗くて寒い冬を体験して春の訪れを感じるとか。それから、大都市でも教会の鐘が鳴るところで暮らしてみるのも良い経験だと思う。あと、自然の中で鳥の声を聴かなければ。鐘の音も鳥の声も、それらを模倣した音は音楽作品によく出てくる。YouTubeで音声を聴くだけで十分なのだろうか?何もやらないよりは、検索して聴いてみるのは良いことではあるけど、うーん、それだけで満足かい? 日本では、外から聞こえてくる音と言えば廃品回収や選挙カーの騒々しい声。そんな残念な日本から飛び出そう!現地で音楽鑑賞をし、自分の演奏を聴いてもらい、音楽の枠を超えて勉強して、音楽というものが決して楽譜に書かれていることだけではないというのを、身をもって知って欲しい。クラシック音楽は、遠い異国で、遠い昔に生まれて、今に引き継がれているものであり、未来に引き継いでいくものであるということを意識しながら学んでいってもらいたい。鑑賞者であるわたしは、日本の生活文化の一部としてのクラシック音楽には、あまり興味を持てない。

これから日本は、日本的な人間ばかり増殖していくのかもしれない。おお嫌だ。人々はもう海外に憧れないのだろうか。海外の情報にオンラインでアクセス出来る環境が与えられていても、憧れもなく、言葉も通じない海外のサイトやサービスに、人々はわざわざアクセスしようとは思わないだろう。自分の周辺に誰も留学や旅行や仕事で海外に行く人がいなければ、そういう人々から影響や刺激を受けることもない。音楽に限らず、日本全国あらゆる分野で超ドメスティックな人間ばかり増えていく。ドメドメジャパン。おお嫌だ。わたしのような年寄りは自慢げに昔の海外旅とか留学の話ばかりして、若い人たちに「ウザいよね」とか言われるのだろうか。

ニューノーマル時代の日本の演奏家たちは、考え方や個性の違いを気にせず、似たような環境で育った同郷の者同士で、阿吽の呼吸で一緒に演奏するのだろうか。わたしが音楽に求める外国性を感じない。ぐすん。クラシック音楽なんか、もう・・・

外国性を感じると言えば、舞台で上演される作品の演出もそうだ。ある日、わたしはロンドンのグローブ座のYouTubeチャンネルでシェイクスピア劇を観ていた。人妻を誘惑してたっぷりお金を貢いでもらおうと企む太っちょの男フォルスタッフ(ヴェルディのオペラでは「ファルスタッフ」)は、ある訪問者の口から「フォード夫人」の名が出た瞬間。ぷしゅ~・・・ それはそれは見事に、細かい霧のような飛沫をあげて、飲んでいたビールを口から空中に噴出したのだった!そのビールの飛沫は、ステージすれすれの平土間で密集して立ち見していたお客さんの頭に降り注いだ。この作品は喜劇なのに、お客さんにとっては悲劇となってしまった。それ以降、フォルスタッフがビールジョッキを手にするたび、苦笑しながら身構えるお客さんたちだった。(たしかビールの霧雨が降ったのは、その1回だけだったはず。)

これはまあ、グローブ座での演出の中でも極端なものの1つかもしれないが、このようなタイプの演出は、新型コロナ感染防止のため、もう2度と見られないのだろう。その役者の感染検査が陰性だったとしても、念のため、今後は、そのような行為をやるべきではない。

ニューノーマルの時代には、舞台芸術の演出も大きく制限されてしまうのだろう。オペラもそうだ。世間の人々は、オペラなど美しいドレスの女性が優雅に歌っている静的なショーだと思っているだろう。全然ちがうのだ。作品や演出により異なるが、歌手たちは汗と涙と唾を飛ばしながら激しい演技をしている。ベトベト状態のまま相手役に抱きついて外国映画のようなキスシーンを披露したかと思うと、突然、上半身が裸の女性ダンサーが踊っていたり、激しい取っ組み合いで血しぶき飛ばしながら暴力的なシーンを繰り広げたり。いや、日本で上演されるオペラはそこまで激しくない。でも、ヨーロッパで上演されるオペラは、演出によって非常に激しくなる場合もある。そんなところにも強烈な異文化を感じていたから、どうしようもなく惹かれていたのだ。

激しければ何でもかんでも惚れ込むという意味ではない。やり過ぎだと思う場面もある。たとえば、ドイツの歌劇場のオンライン特別公開で観たオペラ「ボリス・ゴドゥノフ」では、少年少女合唱団の少女1人にピストルを持たせて「白痴」役を射殺させていた。子供たちにいじめられて糞まみれだったかわいそうな「白痴」は、うるうるした瞳でぷるぷる震えながら、引き金がひかれた瞬間にドロドロの血の塊を吐いて倒れた。強烈すぎて、あの場面が頭から離れない。もっともロシア語オペラをドイツ語字幕で鑑賞したので、ウィキペディアの解説に頼って何とか話の流れは掴んだものの、作品の詳細や演出の狙いも中途半端にしか理解できなかったのだが、オペラが優雅で美しいだけのものではないという強烈な例の1つだ。(余談だが、そのオペラ、主役であるロシアのツァーリ、ボリス・ゴドゥノフ役(もともとイワン雷帝の顧問官だった)を歌ったバス歌手に惚れ惚れしてしまったスズキは2度も鑑賞したのだった。バス歌手が主役の作品が少なくて残念だ。)

激しければ良いというわけではない。ただ、賛否両論あって当然という前提で芸術表現が可能な社会が、みんなで同じ価値観を押し付け合う同調圧力が強い日本社会に生きるわたしにとっては羨ましい。誰もが受け入れてくれるわけではないが、それでもやる。批判があるからこそやる。そういう姿勢に憧れる。みんなで同じ色に染まって同じ方向に向かって走らなければいけない社会とは違う。ショッキングな内容であっても、それを表現することで、人々に社会の矛盾など、何かを考えるきっかけを与えたいと思うアーティストたちが世界にはいる。

あのドイツの少年少女合唱団の皆さんは、きっと普段は家族や身近な人々から目に見える形で、肌に感じる形で、たっぷり愛情を注がれているから、オペラのグロテスクな場面に影響を受けて精神をやられたりはしない・・・のかもね?どうだろう? 大人の歌手たちも、上演するたびに、肉体的な疲労だけでなく精神的にもダメージを受けてしまうのではないかと心配になってしまう。でも、その真剣さ、凄味、全身全霊で、命がけで取り組んでいるところは、鳥肌物だし、カッコイイと思う。

そんなわけで、何が言いたいかというと、わたしがオペラというものに、これまでどれだけ強く異文化を感じていたかということと共に、オペラ出演者たちがお互い非常に濃厚接触者であるということ。ソーシャルディスタンスを保ちながら演じなければならないとしたら、これまでのような衝撃的な演出はもう見られないだろう。愛し合う2人は距離を空けて接触ゼロで愛を表現するしかない。口からモノを吐き出すのも禁止。

それとも、稽古開始前と稽古期間中および上演中に定期的に感染検査を実施して、とりあえず検査結果の精度の低さは気にせず、お互いある程度のリスクは承知で、上演に挑むのだろうか。いざ1人でも感染者が出れば、演出の内容によっては主要歌手から合唱団の団員まで、さらには近くでサポートするスタッフたちまで数十人あるいはそれ以上の人々に影響する。公演間近だったとしても公演は中止。数か月の努力が台無し。そんなリスクを負わせるわけにはいかない。濃厚な接触を伴う演出はもう諦めるしかない。もし、オーケストラのコンサートで演奏者たちが距離を保ち、握手・ハグを禁止するのなら、オペラだってそうするしかないだろう。当たり前だったものが、あれもこれも消えてしまう。ぐすん。ぐすん。

さらには、歌劇場のオーケストラの位置(オーケストラピット)も濃厚接触が避けられない空間だ。あの狭い中に、大規模な作品の場合は、超過密状態でオーケストラ奏者たちが入る。作品によっては合計4時間以上も演奏する。指揮者も奏者も汗や唾を飛ばしながら熱演する。人数を減らしたオーケストラでは、作曲家が求めた本来の音の厚みは出せない。それでも、オペラをピアノ伴奏ではなく、少しでも本来の作品に近い形で上演するためには、編曲してオーケストラ演奏者の人数を減らして演奏するしかないのだろう。

オーケストラもそうだが、オペラの場合も、観客数の規模が大きいので大規模イベントに分類されるだろう。客向けの感染防止対策も大変だ。狭い席にひしめき合って座ることは、もうないのかもしれない。ホワイエでの過ごし方も変わるのだろう。ヨーロッパでも日本でも、わたしはカウンターでドリンクをオーダーして、賑わう大勢の人々を眺めながら時間を過ごすのが好きだった。そんな雰囲気を味わうことは、もうできないのかもしれない。これからは、ホワイエでは閑散とした人々がマスクを着けて静かに休憩時間を過ごす。そして鑑賞するのは簡易伴奏による限定的な演出のオペラ、または名曲メドレー。オペラが、オペラが、とってもかわいそうだ(涙)

ああ、それにしても今年2月・3月以降、世界各地でどれだけ多くの制作予定だったオペラが流れてしまったのだろう!この世に生まれてくるはずだった芸術が生まれてこなかった。あまり考えすぎるとショックで失神してしまうかもしれない。クラシック音楽界の中でもオペラが今回のコロナ禍の最大の被害を受けているような気がする。もう本格的なフルステージのオペラは数年先まで鑑賞できないのか?過去の映像を自宅のPCデスク上の四角い画面で観るだけか?うわーん!うわーん!うわーん!オペラ大好きだったのに!(号泣) こんな危機時に出会ったシェイクスピア劇も状況はオペラと変わらないから、慰めにはならない。お芝居もオペラも両方ともわたしの悲しみだ。こんなに好きなのに生鑑賞が叶わないなんて。

オペラが上演されないと、オペラ関係者たちは経験を積む機会を失う。歌手だけでなく、技術面を支えるプロたち、衣装、大道具、小道具など、公演をサポートするあらゆるスタッフが能力を磨くことができない。指導してもらえない。自分を試す場を与えられない。オペラ文化がこの世から消えてしまう。わたしはもう本格的なオペラと出会えないのか。そんなの嫌だよぅ(大粒涙)

世の中は変わっていくものなのだ。現状維持などありえない。わたしも世の中の変化に応じて何かしら自分を変えていくしかない。でも、自分が自分ではなくなってしまうようで恐い。クラシック音楽が好きで、ヨーロッパが好きで、ヨーロッパで音楽鑑賞するのが好きで、来日演奏家の演奏を日本で鑑賞するのが好きであることは、わたしの大事なアイデンティティだった。自分の中のコアな部分、絶対に譲れない主軸を見極めて、そこだけは守りつつ、自分を変化させようとしても、そんなの無理だ。諦めたくない。全部キープしたい。

人々は地元愛に目覚めはじめ、ローカルに生きていこうと考えるようになっている。日本でも海外でも。それなのに、わたしはその流れに逆らい、相変わらず遠くに猛烈に憧れながら生きていきたいと思っている。海外贔屓で何が悪い!外国かぶれで何が悪い!舶来主義で何が悪い!人の好みに口を出すな!わたしはヨーロッパを溺愛している。ヨーロッパをインターネットだけで楽しむ人生なら、そんな人生、わたしにとってはまったく価値がない。人生など捨ててしまおう。

繰り返しになるが、しばらく耐えれば、また以前の通りになるのではない。わたしが好きだったクラシック音楽ではなく、ニューノーマル時代のクラシック音楽が始まる。もう、わたしを魅了し続けた、あのクラシック音楽ライフは戻って来ない可能性が高い。わたしも心機一転、新たなクラシック音楽ライフを始めなければならないのに、そこに、何も新しい希望を見出せない。もうクラシック音楽ファンをやめてしまうしかないのだろうか。でも、クラシック音楽を捨てて、いったい他に何をすれば良いというのか!こんな状況に陥ってしまうとは!絶望せずにいられるものか!

絶望への確実な解決方法はたった1つ。つまりこうだ。潔く命を絶つことができれば、どんなに素晴らしいだろう!(ここで、シェイクスピア劇で知ったマーク・アントニーのちょっとカッコ悪い自死シーンを思い浮かべてクスっと笑ってしまう。)親が悲しむとか言わないでくれ。わたしは、もう十分尽くしたから、別にいいではないか。

残念なことに、勇気がないわたしは、ご覧の通りまだ息をしている。

ちなみに、皆さんの目から消えてしまったブログ記事は、非公開状態にしただけなので、いつでも復活させられる。そのまま永遠にお蔵入りかもしれないが、今後、何か関連する内容について書くときに、再公開するかもしれない。まあ、でも、あのような記事は、ニューノーマルの時代には必要ないだろう。わたしが大好きだったクラシック音楽の世界は、わたしにとって、おもしろくない方向に変わっていってしまうのに、今さらクラシック音楽ファンを増やそうとか、より好きになってもらおうとか、コンサートや旅に誘導しようとか、そんな試みはバカバカしい。

悲観者としての今後のクラシック音楽界の妄想については、もう今回で十分書いた。状況に変化があったときに改めて何か書くかもしれない。

今後は、何か長いまとまった文章を書いて、数回に分けて公開しようと考えているが、こんな状態の中でいったい何について書くのだろう。気力が沸かない。それから、クラシック音楽やオペラ、シェイクスピアの場面などのイメージ画像を作成してみたいとも考えている。それで何かが変わるわけではない。思っているだけで実行しないかもしれない。でも、もし何かおもしろい作品が完成したら、このブログで披露するかもしれない。

引き続き興味を持ってもらえるなら、数か月に1回ぐらいスズキブログを訪問していただければと思う。何か新しい記事が公開されているかもしれない。

ええ!
うそ!?!?

ここまで読んでしまったの!? A4で16枚分の文章量なのに!?(笑)
どうもありがとう!

わたしはニューノーマルに適応できないかもしれない残念なクラシック音楽ファンなのだが、ここまで読んでしまった皆さんは、新しいクラシック音楽のスタイルに喜びを見出し、ますます素晴らしい人生を生きられますように。

では、またしばらくの間、さようなら。

スズキ

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