エッセイ|ハムレット 1

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お気に入りの場面を再現したので、ご覧いただきたい。「死」というテーマに相応しいシーンである。 

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え?意味不明かい?

では、解説しよう。

物語の最後、ハムレットは猛毒が塗られた剣で刺され、その命は残り僅か。無念の想いで、親友のホレイショーに別れを告げる。ホレイショーは、突然の出来事に呆然としながら、毒入りワインを手に取ろうとする。彼は、死にゆくハムレットのお供をしようと考えたのだ。ハムレットは、最期の力を振り絞ってホレイショーの行為の邪魔をする。そして「生きろ」と言う。この世に残って、事の顛末を伝えてくれと訴える。悩んでばかりで行動しない人物と言われがちなハムレットだが、死ぬ間際の行動はちょっとカッコイイ。

ホレイショーが呟く「デンマーク人より古代ローマ人・・・」という部分も説明が必要だろう。彼らが生きるキリスト教世界では、自ら命を絶つことは禁じられている。ハムレットも、物語の始めのほうで「全能の神が自死を禁じていなければ!」Or that the Everlasting had not fix’d his canon ‘gainst self-slaughter!と嘆いていた。一方、古代ローマにおいては、自ら命を絶つというのは、状況次第では名誉なことだった。自分が生きる時代の価値観ではなく、時間的にも地理的にも遠い古代ローマを想いながら呟くホレイショーという人物が、スズキは気になって仕方ない。

 

ハムレットより先に、ホレイショーについて語る

このラストシーンに限らず、ホレイショーは不思議な存在だ。何しろ彼は中心人物でありながら、どこか存在感の薄い(空気のような?)人間だ。中心にいながら、まるで部外者のようでもある。彼は常にハムレットの聞き役で、喜怒哀楽を強く表現したり、自分の意見を強く推したりということは無い。いつもの自分なら、このような人物には注目しないだろう。それなのに、なぜかスズキの瞳がキラリと光る。

ひょっとして、彼が物語を大きく動かすキーパーソンなのかもしれないと、わたしは密かに期待していたのだろうか。期待していたのに、何もないまま、古代ローマ人云々とか発言するだけで、物語が終わってしまった。予想が外れた気まずさを、わたしはまだ引きずっているのか。

主要人物の中でただ1人、最後まで生き残ったホレイショー。いったい彼は何者なのだろう。名前からして奇妙だ。Horatio と綴る。ラテン語のような名前なのでデンマークらしくないが、他にもラテン語の名前を持つ人物がいるので、まあ、いいだろう。

シェイクスピアが物語の「ネタ本」として利用したデンマークの伝説的物語『デンマーク人の事績』には、ホレイショーに相当する人物は出てこない。シェイクスピアが作ったオリジナル人物なのだろう。

ホレイショーは、ハムレットと同じドイツの大学で勉強していた。ハムレットの父である王の急死を受けて、ハムレットを追って、少し遅れてデンマークに帰国したらしい。新王らは、鬱気味の後に急に気違いになったハムレットの様子を伺うために、ハムレットにとって身近な人々を利用するのだが、何故か「身近な人々」にはホレイショーは含まれていないようだ。ハムレット自身は、ホレイショーのことを、心から信頼できる唯一の友だと言っているが、その事実を知っているのは本人たちだけということか。

こうして中心人物でありながら、ハムレット以外の人間には軽んじられていたホレイショーは、結果として、主要人物がすべて死んだ後も生き残り、駆け付けた隣国ノルウェーの王子に事の顛末を伝えたのだった。ちなみに解説などによるとHoratioという名の由来はラテン語のorator (= speaker) で、話し手という意味。つまり、物語ラストに彼に与えられた役そのものを意味している。

 

ところで、疑問がある。ホレイショーはなぜハムレットの後を追って死のうと思ったのか。彼に死を望むほどの事情など、あったのだろうか。考え得るのは以下の点だろう。

  • 次々と王家関連の人々が死んだので、気が動転してしまった。
    → ハムレット以外の人とは、それほど親しくなかったのに?

  • 親友ハムレットがいない世界では生きていけないと思った。
    → どうだろう?!親友とは言っても、どちらかというとハムレットのホレイショーに対する一方的な強い想いがあっただけで、ホレイショーのほうは、ほとんどまったくハムレットに依存していなかったように思うのだが。

 

カナダのストラットフォードで上演されたプロダクションでは、こんなシーンがあった。イングランドに行ったはずのハムレットから、突然手紙が届く直前の場面だ。眼鏡をかけた真面目そうなホレイショーは1人で思い詰めた様子だった。黙ってタバコをふかしていた。そんな場面を観ると、きっと彼は今後の展開を悲観して、あるいは悪い予感がして、既に絶望感に覆われていたのでは、という解釈ができる。

ホレイショーは、数々の忌まわしい出来事に直接巻き込まれたわけではない。鬱々とした想いを吐露することもなかった。でも、その時が来たら、自分も死のうと思うほど心の中で思い詰めていた可能性がある。本当は、彼の方もハムレットに何か聞いてもらいたかったのかもしれない。

 

ストラットフォード・フェスティバル(予告編)


Hamlet | Stratford Festival 2015

 

一方で、腹黒いスズキは、非公開化した過去記事で、ホレイショーを陰の首謀者とする演出の可能性を述べた。王家に恨みを持つ男という想定。ホレイショーが復讐のために、最新テクノロジーか何かで王の亡霊を映し出して、王家の人々が殺し合うように仕向けたというシナリオ。なんちゃって。悪い子だなぁ。スズキは。でも、最初から最後まで流れの中心にいながら、無傷のままラストシーンまで残っている人なんて、推理小説なら犯人だったりする。

 

本『シェイクスピアの面白さ』

そのように、シェイクスピア作品は、自由に想像力を使って様々な可能性を妄想することが可能なのだ。なぜなら、テキスト上は、僅かなト書きを除けば、セリフばかり。わたしがこれまでに目にしてきたオペラの台本と比べても、シェイクスピアのト書きは極めて少ない。

あるフレーズを、心を込めて丁寧に言うか、嫌そうにテキトーに言うか、皮肉を込めて言うか、どのような動作で言うか。その辺は、シェイクスピアを読み物として読むなら、読み手の想像力次第であり、劇として上演するなら、演出家、役者など関係者の想像力と表現力によって変わってくる。

他の文学作品と比べると、戯曲(芝居の台本)は分析可能な余地が大きいのだ。現代作品はそうでもないのかもしれないが、シェイクスピアのような古典に至っては、分析余地が巨大なのだ。ただ読むだけ、ただ観劇するだけでは、「終わって」くれない。それどころか、いつまでも作品のことを考え続けてしまう。終わりのない世界、答えのない世界である。まだシェイクスピアに興味を示して数か月のスズキが、こうして長編シリーズを投稿しようと試みていることからも分かるだろう。書こうと思えば書けることが山ほどある。楽しかった、カッコ良かった、感動した・・・などで済むものではない。

そのような点は、完全にというわけではないが、ある程度まで、クラシック音楽やオペラの世界とも似ている。近現代の作曲家は、どのように演奏すべきか、楽譜に記号や文字で徹底的に指示を書き込んだが、もっと古い時代(バッハなど)の場合は、細かいところは暗黙の了解や合わせ練習中に口頭で指示したと思われるので、楽譜には書かれていない。だからこそ、分析や研究が盛り上がるし、作品によっては研究して何らかの結論を出さないと演奏できないという場合もある。シェイクスピア作品にも同じことが言える。

 

先月読んだ本『シェイクスピアの面白さ』(著者:中野好夫 1903年~1985年)では、おもしろい言い方をしていた。すでに図書館に返却してしまったので、正確な文言は後日確認するが、今回は一旦わたしなりの言葉に置き換えて説明する。シェイクスピア作品の翻訳も手掛けた中野氏は、以下のような内容のことを述べていた。

芝居は「純粋」ではないという。

小説なら著者の思い通りに表現することができる。例えば、小説なら登場人物の心の中を丁寧に書き綴ることも可能だし、発言をどのように言ったか(泣きながら、高笑いしながら、嫌そうに)についても、明確に文章に含めることができる。そうして著者の想いを誰にも邪魔されずに「純粋」に表現することができるのが小説というもの。

それに対して、芝居というのは、台本を1人で作成する場合でも、様々な制限がかかる。難易度の高い登場人物がいるなら、その役をこなせる実力派の役者がいないと想定通りの表現を実現することはできない。台本を書いた本人が演出もするとは限らない。他人が舞台を演出するなら、他人の視点が入り込むわけだから「純粋」ではなくなる。

場所の制限もある。シェイクスピアの時代のメイン劇場は屋外だった。上演は昼間なので、夜のシーンを表現するために役者にセリフを言わせなければならなかった。たとえば、「夜中12時の鐘が鳴った!暗い!」など。つまり、文学的な表現や、書き手の好みを優先したい気持ちを抑えて、本当は入れたくない余計なセリフを含める必要があった。

それから、劇場のスペースの広さ、舞台の構造。現代なら、音響や照明の機能も上演を左右するだろう。

だから、芝居というのは、小説のように、ほぼ完ぺきに純粋な「オレ色の作品」「アタシ的な表現」として最終的なお客さん(小説なら読者、芝居なら観劇者)に届けられるものではない。多くの人々の能力、好み、意向、それから物理的な制限の中で制作されるものなのだ。

それを中野氏は「不純」というちょっと面白い言葉で表現していたと思う。でも、不純だからこそ、読んだり、観劇したりする中で、様々な疑問や矛盾点が浮かび上がってくるし、新しい解釈、分析、演出などの可能性が広がっていく。それだからシェイクスピア作品は魅力的なのだ。何百年も経ったのに引き続きわたしたちを楽しませてくれる。

『シェイクスピアの面白さ』は、1960年代に雑誌の連載として書かれたものをまとめた本なのだが、まったく古さを感じさせない。インターネットなど無かった時代に、よくこれほど情報収集できたなと驚く。高尚な文学作品としてではなく、とにかく面白いということを書きたいという意気込みを冒頭で述べているが、わたしも中野氏の想いに共感する。シェイクスピア作品を少なくとも10作品ぐらい知ってから、この本を読んでみると面白いだろう。言うまでもないが、シェイクスピアの作品に関するエッセイなどは、ある程度まで作品を知ってから読まないとチンプンカンプンである。かといって、全作品を知ってから読むべきというわけではない。

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こうして時間をかけて解釈を深めていくのが面白い。だからこそ、同じ作品を異なる演出で上演、観劇することに意味がある。この数か月、わたしは素人ながらシェイクスピアを追いかけて、作品の解釈や分析に正しい答えは無いということを実感した。芝居、戯曲というのは、自分にとって身近なものの中では、オペラに近い。オペラでも解釈、分析、演出には大きな可能性がある。だが、オペラとお芝居ではその可能性の内容が少し異なるようだ。そこも興味深い。その辺についても、今後の記事で少しずつ書いていきたい。

 

さて、ホレイショーのことに続き、シェイクスピアの面白さや解釈、分析、演出の可能性まで語るうちに、だいぶ紙面を使ってしまった。主人公ハムレットを置き去りにしたままだ。

 

「生きるか死ぬか」

ハムレット、死、とくれば、有名なセリフを思い出すだろう。シェイクスピア作品をあまり知らない人でも、このフレーズは知っているはず。

To be, or not to be: that is the question.

定訳は「生きるか死ぬか、それが問題だ」となっているが、これは幾通りにも解釈できる。To be or not to beは翻訳者を困らせる部分だ。ここでは、生きるという意味のlive も死ぬという意味のdieも使われていない。あくまで動詞はbe動詞なのだ。つまり「生きるか死ぬか」は意訳である。英語圏でも「生きるか死ぬか」という意味として解釈されることが多いので、そのような和訳になったのだろう。be動詞の意味は複数ある。例としては、存在を表すこともできるし、「~になる」という意味でも使う。

シェイクスピア時代の発音(オリジナル発音)の再現でも活躍する役者のベン・クリスタル氏による講義をYouTubeで視聴したが、彼が言うには、ハムレットが自殺願望を口に出したのはTo be or not to be よりだいぶ前の場面(第1幕第2場「全能の神が自死を禁じてなければ・・・」のところ)であり、その後、第3幕第1場で再びその願望を述べるのは、時間の経過を考えると、違和感があるとのこと。むしろ、To be or not to be は、父の亡霊が命じた復讐をやってのけるだけの狂気を備えた人間になるべきかどうか・・・というほうを意味しているのでは?それが、ベン・クリスタル氏の解釈だとわたしは理解したのだが、そもそもまだわたしは知識不足で彼の言うことを正確に理解できているかどうかは自信ない。

ベン・クリスタル氏は、YouTubeでシェイクスピアについて調べていると、必ず目にする人物の1人だ。彼の父は著名な言語学者で、父子でオリジナル発音に関するトークをしている動画もある。オリジナル発音 original pronunciation (OP)に対して、彼らが今しゃべっている英語の発音(受け継がれてきた発音?)は received pronunciation (RP) と言う。今現在、シェイクスピアの芝居では、当時の台本を使っているが、発音は基本的に現代の発音(RP)である。時折、実験的にオリジナル発音(OP)で上演することもあるようだ。

 

ところで、録音する機械などシェイクスピアの時代にはなかったのに、どのようにして当時の発音を知ることができるのか?

クリスタル父子が出演する下の動画によると、発音の謎解き方法は主に3つあるという。(以下は素人スズキによる理解)

  1. どのように発音されたか、どこが韻を踏んでいたかについて、当時の人々(お客さんなど)が書き残したものを参考にする
  2. (現代とは違う)綴りを参考にする。音は綴りに反映されている。
  3. 韻を参考にする(現代の発音では韻を踏まないが、当時の発音では韻を踏んでいたはず・・・という想定で発音を考える)


Shakespeare: Original pronunciation (The Open University)

オリジナル発音で上演すると、現代の発音より上演時間が少し短くなるそうだ。

また、シェイクスピアの作品には「二重の意味」を持たせた単語が多く出てくる。わたしがすぐ思い出せるものを例として挙げると、「太陽」sunが「息子」sonも暗示していたり、「横たわる」lieの裏の意味が「嘘をつく」だったり。オリジナル発音を知ることで、現代の発音で読んでいたときは見落としていた「二重の意味」に気付くこともあるそうだ。そうして本来のストーリーが見えてくる。忘れ去られていたものを発見するミステリー。いいなぁ。

面白いね。作品の解釈、分析、演出に続き、オリジナル発音の研究や再現という面白そうなテーマが、シェイクスピアの世界にはある。

わたしの母語が英語ではなく日本語であることが残念だ。結局のところわたしはシェイクスピア作品のセリフを覚える能力は低いし、細かいイントネーションや音の違いを正確に聴き取ったり真似たりすることはできない。改めて、ヨーロッパに憧れる人間にとって、日本語は何の役にも立たないと思う。わたしの人生はつまらない。興味あるものを追求する能力がないのだから。

ハムレットの独白 To be or not to be を、ベン・クリスタル氏によるシェイクスピア時代のオリジナル発音でどうぞ。前半は、イーをエーと発音している部分がいくつかありますね。冒頭部分だけテキストを付けておこう。現代の発音と比べてみてね。

To be, or not to be, –that is the question:–
Whether ‘tis nobler in the mind to suffer
The slings and arrows of outrageous fortune
Or to take arms against a sea of troubles,


Original Pronunciation - Hamlet - To Be, or not to be... - Ben Crystal

 

 

「残りは沈黙」・・・人生最期の言葉

死というテーマに相応しく、今日の記事の締め括りとしてハムレットの最期の言葉を載せよう。

The rest is silence.

残りは沈黙・・・ 

サイレンス。物語を通して喋りまくったあとに、「サイレンス」と言ってハムレットは旅立った。「沈黙」、あるいは「静寂」。終止符(ピリオド)を自ら打ち込んだ感じでもある。

シーン。

 

わたしも人生を終わらせるときに、このセリフをいただこうかしら。

「ヨーロッパ旅と来日演奏家が

人生のすべてでした。

みなさん、さようなら。

これ以降は沈黙。」

 

ハムレットは実によく喋った。彼はきっと言葉を紡ぎだすことが好きなはず。気違いのふりをしながらも、言葉遊びを楽しむように、皮肉を込めたり、面白おかしい発言をしていた。旅する劇団が来たとき、ハムレットはオリジナルでセリフを書き出して、追加して急遽役者に覚えてもらって、演じさせた。さらに、過去の劇から気に入っているセリフを、暗記で、なかなか良い発音・発声で、みんなの前でスピーチした。そして彼は親書を偽造することさえできる。なかなかの「書き手」でもある。文学青年で知的なイメージもあるが、一方でラブレターは苦手らしく、オフィーリア宛の手紙はイマイチだったり。面白い人だ。

悩んでばかりで行動しないキャラクターという人物評が一般的かもしれないが、ハムレットは、そこそこ行動していたとわたしは思う。敵討ちこそ死の直前にようやく達成したが、それまでも何かしら行動を起こしていた。

感染症の流行で、大事にしていたことがあれもこれも不可能になって、生きることに何も価値を感じなくなったわたしにとって、登場するなり死にたい気分を告白した暗いハムレットの言葉は耳に心地良かった。

最初からどんより暗く、死にたい願望を口にする主人公というのは、物語では珍しいのでは?ありがちなストーリーでは、少しずつ追い詰められて最後に自ら命を絶つというパターンだろう。

いや、どうだろう。最初から死にたい気分の人物が出てくる作品は他にもある。ヴァーグナーの作品だ。呪いを掛けられて、死ぬことが許されず、永遠に海をさまようオランダ人とか、第一幕で「死のお薬」を飲んで自殺を図ろうとするトリスタンとイゾルデ。

絶望で始まる作品は、絶望に包まれた世の中で生きる人間にとっては、現実的で、ついつい引き込まれてしまう。わたしは、絶妙なタイミングで『ハムレット』と出会ったのだが、喜んではいられない。この作品を、英語で、英語圏で、観劇できるのは、いつになるだろう。今の状況がずっと続くなら、一生無理なのかもしれない。せっかく出会ったのに、机上の薄っぺらい板で楽しむだけか。

 

さて、次の記事では『ハムレット』の作品の中で死んだ他の人物たちについて語ろう。個性豊かな人物たちだが、死に方もバラエティに富んでいる。お楽しみに。

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